サルトル哲学に、即自と対自という概念がある。ぼくは「存在と無」でそれを学んだが、元々はヘーゲルが初めに使ったのかも知れない。サルトルはハイデッガーから学んだと言われているけれど、ヘーゲル哲学を継承しているとも言われている。ここで取り上げたいのは、自分には即自と対自の2種類の自分がいるということだ。生物的で身体的な自分が即自で、今あると感じている物体としての自分がある。もう一方の自分は、意識上の考えている主体としての自分だ。思考する主体であるから押し進めれば、普遍的な自己という主体にもなり得る。だから、池田晶子のように、「なぜ、普遍的な私は個別の私という存在を生きることができるのか?」という問いを立てることができる。
さてぼくとしては普遍的な私には取り合えず興味はないので、個別の私の中の「生き生きとした活動的で創造的な私」を取り出してみたい。即自としての私が大きな現実社会の中にいて小さく無力な状態でいることから脱して、逆に即自の中の自由な対自を想定してその対自の自由空間を「こころ」として描いてみたい。この即自の中の自由な対自を「こころ」と定義してみる。ここで注目したいのは、「の中の」という状態なのだ。そこは包まれている。まだ私は子供なのかもしれない。繭の中のサナギという存在性。その子供のサナギが対自という能力を自由に発揮できるとしたら、どんなに生命力に満ちていることか。対自の能力は、記述である。現象を記述する能力。
包まれている、という安心感はエネルギーを与えてくれる。元々ある即自に含まれている原基から発生するエネルギーに形を与えたい。ヘーゲルだったら運動する概念になるのだろうが、ぼくはもっと遊びに近い形を考えたい。かといって竹田青嗣のゲームでもない。やはり、トルストイやロマンロランの愛に近い。あらゆるものを包摂する愛だ。宗教的な愛ではない。あくまで個別的な愛の形にとどまる。それを記述できたらいいのに、 、 、