私の生きてきた71年間の人生は失敗だった、と書き出したら何を今更どうしようもない過去を蒸し返すのか、とあきれられるに違いない。過去は済んでしまった事だから変えられないので考えても仕方がないと普通はそれで終わってしまうのだが、私は過去に執着してしまう。何しろそうしたら自分という人間が何の中身もない空虚な時間を生きてきただけになる。ただ、食って寝て会社で働かされるままに動かされてきただけになる。そんな薄っぺらい人生を送ってきたのか。身近にいた友人か家族の死に遭遇して喪失感を味わうのではないが、自分が何だったのか自分がなくなるという喪失感にショックを受ける。38年間の会社員人生は何だったのか?定年まで働いて来れたのだからそれでいいではないかというサラリーマンの価値にしたがって、満足すればいいという声がする。しかし、私はサラリーマンの自分に肯定感はない。サラリーマンという言葉自体が無意味なのだ。賃労働者という社会学的な言葉がある。賃労働者と言葉を変えても、労働運動などしたわけではないただの一労働者だった。肉体労働ではなかったから肉体的にしんどい経験はしてないが、社長から言葉のパワハラを受けて鬱状態に近い時期が二年ほどあった。ひとことで言うと私は会社の中でずっと孤立し続けてきた。孤立が言い過ぎならば、違和感が消えることはなかった。しかしその違和感を大切なものとして扱わなかった。そんなことをしていたらどんどん社員の中で遅れを取ることになるから、むしろ邪魔になって押し殺してきたと思う。
そうだ、今こそその違和感の正体を明らかにすべきなのではないか。自分の心の感度を減退させて何も考えずに言われたことを会社のためと称してやって来たのが会社員だったのではないか。今こそ心の感度を高めて人間らしく自分を再改造しよう。そのために書いて書いて言葉と自分の心の回路構造を豊かにしよう。
会社という場所に対する違和感の端的な起因の一つは、自分の場所ではなく、会社の所有者である社長の場所であることだ。その世界は所得金額で明確に序列化された、非民主的な等級化された、関係性で埋められた閉鎖社会である。