先ほどから頭の中が堂々巡りして、考えがまとまらないのと発展しない状態が続いている。こんな時は頭の中の状態をありのままに書き出すに限る。ブログをそんな風に活用して書いてきた。まず何を考えているかを書く。地域の歴史がどのように今のわれわれに生かされ得るのか、という問題だ。それをさらに抽象化すると、どこまで自分の思考が地域の歴史に規制されているかと考えたい。地域はよく郷土とも言われる。郷土愛がどのように生まれるのか、という主体的な問題にも通じる。ぼくの場合、現在住んでいる石川県野々市市が郷土になる。生まれは金沢市だが、母は野々市市を含む南加賀の能美市の出身で、山間部で材木商を営んでいた家の娘だった。
昨年、金沢市民文学賞を取った松村昌子氏の「姫が生水」を読み、主人公の生まれた架空の「霞谷村」が母の故郷「鍋谷村」である事を見出して、一挙に自分のアイデンティティに目覚めたという経緯がある。実際の自分の家系を調べることにはならなかったが、小説中に描かれた人生と郷土の歴史はほぼぼくの母方の家系に重なるように思えた。小説を読まなかったら、自分の祖先の生活や世界観などは教科書に断片的に書かれるエピソードのような、客観的な事実の羅列にすぎなかっただろう。それはまだしもで、恐らく田舎のことは全く興味が起こらず忘れられる運命にあったと思う。
この小説がきっかけになって俄然時代小説や歴史小説に関心が向くようになった。現在の自分の少なくとも無意識下には、過去の日本人が経験してきたことがDNAに刻まれて記憶に眠っているものと思える。郷土の歴史で最も有名なのが、加賀一向一揆の時代である。一揆は戦国時代の幕開けと共に各地で起こっていた。よく日本の民衆はおとなしく、デモなどは滅多にしないし革命の経験がないかのように語られることがあるが、戦国時代の農民は武力をもって闘っていた歴史がある。加賀の一向衆はいわゆる「百姓の持ちたる国」を100年近く続けた歴史を持つのだ。この郷土の歴史が今の民衆のDNAにどれだけ影響しているかは分からないが、興味深い問題でもある。惜しむらくは信長によって全てを焼き払われて、ほとんど文献が残っていないらしい。文献で証拠がないものは歴史的価値が失われる慣例がある。でも文学はそれを補って今のわれわれに教えてくれる。どこまで想像力がリアルに働くかが肝ではあるが、、、、
