生きた証を得るために

第二の人生での再自立をテーマにブログを書くことにしました。何ができて何が成し遂げられずに残っているか、人生の総決算を書き出して新たな自分を作りたい。

Change out from rootlessness

いつ頃私は根無し草になったのだろう。多分あの頃だ。いわゆる厨二病を患っていた間に自分の根っこを失ったのだ。あの頃は自分の根っこが嫌だった。ラジオの短波放送で米軍向けの音楽番組を聴いていて、アメリカに憧れていた。小説は翻訳ものばかり読んでで欧米かぶれになった。誰か身近に影響を受けた人がいたわけではなくて、自然にそうなったのだ。テレビの影響はあったかもしれない。ディズニーランドやトムとジェリーやアンディ・ウィリアムズショーや奥様は魔女やコンバットや逃亡者やスパイ大作戦マイアミ・バイスなど、ゴールデンタイムにはアメリカの人気ドラマばかりやっていた時代だった。今から思うと洗脳されていたと思われる。欧米文化がカッコよく、日本文化に触れる機会が私の若い頃にはなかったと思う。侘び寂びや仏像や武士道の美を感じる感性は中年以降じゃないと磨かれないと思う。

いつ頃どういうきっかけで私は日本を見出したのだろう? 一番初めは、坂本龍馬だという気がする。幕末から明治維新の激動の混乱期に理想に生きる志士たちを初めてカッコいいと感じた。しかし坂本龍馬は故郷の土佐を脱藩した男だった。大学に入ってから大江健三郎を読み始めるが、主人公は既に根無し草だった。村上春樹も日本的なものを失った故郷喪失者を描いている。三島由紀夫はピンと来なかった。仮面の告白はただ惨めだと感じただけだった。こうして振り返ってみると、日本的なものはいきなり源氏物語を読むまでは本質的な部分に触れえていないかもしれない。禅や唯識仏教に出会った時は、日本的なものというよりは東洋的な抽象世界に触れたという方が当たっている。

ただ、日本的なものといっても、貴族か僧侶か武士か職人か商人か百姓か、その実体によって異なる実相を示すのではないかと思われる。私の場合はルーツは百姓であり、生まれた土地から加賀一向宗門徒アイデンティティを感じる。私はその門徒の末裔である。そこから近代を通過して今の自分の根っこを築く必要があると思っている。