生きた証を得るために

第二の人生での再自立をテーマにブログを書くことにしました。何ができて何が成し遂げられずに残っているか、人生の総決算を書き出して新たな自分を作りたい。

小説読むのに正解はないか?

読書会で司会をするという場面がある。ぼくが所属する読書会では、課題図書を順番に自薦して決めて当番の人が司会をすることになっている。司会者はそれぞれの感想を聞いてポイントやキーワードを取り出して、適時に議論に持っていくことが求められる。だが、誰かの感想が共感を呼んだ時には自然と他の人が同意の意見を述べたり、反対に尖った感想を言う人には反対意見がすぐ出たりで、司会を飛び越えて議論になることの方が多い。そういう活発な発言があるのは望ましいけれど、感想がないとかよく分からなかったとかとして場が盛り上がらないこともある。その場合は司会は何とか感想を引き出す質問をすべきなのだが、適切な質問が浮かばないこともある。

先日ぼくが司会役の時に、何回も読んだけれど感想が浮かばなかったと発言する女性に遭遇した。感想というものをどう話したらいいのか分からないらしかった。他の人はいろいろ感想があるのはどうしてかと疑問にも感じたらしかった。今から思うと、その人は課題図書の小説のどこがいいのか分からなかったのだろうと思える。その時の作品は本屋大賞に選ばれていたが、その一部の章だけをテキストにしたものだった。本屋大賞に選ばれていればある程度の評価はされていて、良いとかろはあるはずだ。とすればその人はもっと評価軸が高く、本屋大賞並みのものでは心が動かなかったということなのか。当日は時間がないので一人の人に突っ込んだ質問はできなかったが、実際はどうだったか検証してみる価値はありそうだ。つまり、どのように自分が感じたことを言葉にして参加者に理解してもらい、できれば賛同してもらうような話し方の問題になる。それは高度なコミュニケーション能力が必要なことのように思える。

そもそも感想とはどんなことだろう。女性の場合よく言われるのが、好きだという感想だ。私は好きよでおしまいとは流石にないが、どこが好きでなぜなのかをうまく話せる人は意外に少ない。自分の好きに納得できる他者をどう掴むのか、大概の女性は関心がない。

あの時彼女は、当たり前のことが書いてあるのにどこがいいのかしらと言っていた。その時課題図書を選んだ読書会主催者の人は、当たり前じゃありませんと言った。うわべだけを読む人と深く読む人の違いといえばそうなるが、その違いをその場で言うとその人の顔を潰すことになるだろう。当たり前じゃないことを説明しなくてはならない場面だったができなかった。小説読むのに正解はないのだから。