ああ、自分を支配する大きな物語とは何だろうと、それを考えるとどこか自分に帰るような安堵感がある。私は金沢市の小立野という街に生まれ育った。今は隣の野々市市に住んでいていつでも育った場所に行くことができる。言わば過去が身近にある。いつまでも年寄りになることができず、思春期に気分次第で戻ることができる。ヨーロッパに憧れを持つきっかけを作った、小立野小学校近くの叔父の家の従兄弟の部屋にあった、モジリアニ風の肖像画を思い出す。美大を受験することに決めてから、図書館からロートレックの大判の全集本を借りてきて模写していた頃を思い出す。美大の教養過程で東京芸大から美術史の教授が来られ、フィレンツェの講義を受けた時の格調高かった印象を思い出す。「イメージの狩人」の著者坂崎乙郎から、ボッシュやブリューゲルの夢幻の世界を知った。新婚旅行ではフィレンツェのウフィツィ美術館でボッチチェルリを観た。
絵で飯は食えないと印刷会社にデザイナーとして就職した。今は定年退職で食うに困らず何をしてもいいのに打ち込めるほどのものに遭遇していない。今日、中央公論社新書の高階秀爾著「フィレンツェ」を読み終える。現在のフィレンツェはyoutubeで見ると観光地の一つに過ぎなくて、往時の面影は感じられない。15世紀のヨーロッパの花の都の雰囲気は感じられない。古都金沢は職人の街でもあってフィレンツェと似たところがある。どこかぼくのDNAに刻まれているのだろう。ああ、大きな物語とは記憶の同質性のことだろうか?風土と面影と記憶の同質性を辿る旅を続けたい。
