ポスト団塊世代のブログ

1968年という年は世界が一つになった不思議なエポックだった。ボブ・ディランやPPMが反戦歌を歌いストーンズもベトナム反戦のメッセージを送っていた。政治に無関心な人も時代の雰囲気に呑まれ、大学をドロップアウトして日雇い労働者になったり、ヒッピーになって一生幻想を彷徨い続ける詩人達もいたんだ、今では信じられないけれどね。

夢のような昭和

今71歳になって自分の黄金時代を思い起こす時、夏の爽やかな朝の始まりの甘い時間が浮かんでくる。やっと中学生になったばかりの夏休みが始まるころ。テレビでその頃流行り出したフォークソングの新曲を紹介する番組を毎朝見ていた。憧れの都会のカッコイイお兄さんとお姉さんのカップルがカジュアルな最新ファッションに身を包んでいた。少しばかりの勉強をやってあとは好きなだけ遊んでよかった時代。まるでストレスのない昭和のかけがえの無い豊かさ。もう何処にもない時代の空気を蘇らせたいが、誰か同時代人が現れてほしい。あの頃みんなどう言うわけか、大人を嫌っていた。大人は何もかもが汚かった。そういう時代だった。

アジアの中の日本

9月に入っても猛暑が続いている。こちらは台風10号の被害は全くなかった。多少雨が降った程度で長雨にはならなかった。今年正月の地震も我が家は全く被害はなく、直後の街の様子も普段通りに車が流れていた。ニュースで接する状況との落差に意外な感じがしたのを覚えている。能登の被災された方々には義援金を寄付したくらいで、具体的なボランティア活動をせずに後ろめたさがある。自分の中の冷淡さがあるのを認めざるを得ないが、これまで人から助けを受けるような経験が幸運にもなく来ていることが理由だと思える。

しばらくブログを休んでいたが、実は心に期することがあった。これからの生き方としてアジアの中の日本人として生きるということだ。自分なりの戦争責任の一部なりとも負って生きたいと考えた。中国や朝鮮の民間人に対する、我々の先人が為した残虐な行為の加害者責任を一人の国民として負いたいと考えた。毛沢東は日本人民と軍国主義者を明確に分けて、前者は味方であり共に日本の軍国主義復活と闘うとした。江沢民反日政策をとるまでは、日中は友好関係にあった。私は特に陸軍が行った残虐な行為の源泉を知りたいと思った。アメリカの原爆投下も国際法違反の残虐性があるが、日本軍の民間人や捕虜に対する残虐性には陰湿な独特のものがあるような気がする。明治政府の「脱亜入欧」政策にも遠因があるのかもしれないが、自分も含めて欧米人におもねり、アジア人を目下にみる傾向がある。姜尚中が言うように、アメリカ人を何人も知っていても台湾人の知っている名前はほとんどない。オードリー・タンぐらいだ。孫文蒋介石は教科書で名前を知っているが、鄭成功は教科書にも載っていなかったと思う。

中国や韓国・北朝鮮はとにかく隣国で引っ越すわけにはいかないのだ。隣同士は仲良くやっていくしかないのだ。そのことを改めて自分の心に「期した」のがぼくのrecentlyだった。

 

日本の軍部が過去に中国に行ったこと

今、本田勝一の「中国の旅」を読み始めている。たびたび絶句して読み進めるのをためらった。しかし日本人の一人として読了する義務を感じる。以下、その義務を果たすために自分用にamazonのレビューサイトから無断転記させていただいた。

 

ミスター・ディグ 

2018年10月31日に日本でレビュー済み

この本に批判的なレビューが多いようだが、明らかに内容をよく読んでいないし、当時の事情もよく知らないのだろう。
当時の中国では、今よりも報道規制が厳しく、無理に取材しようとすれば、命の保証はないような状態だった。
そもそも、中国側の言い分が当時の日本では碌に報道もされていなかったのだから、本多氏が中国側の言い分を紹介したのは、何もおかしくないし、ジャーナリズム的には非常に意義のある事であると言える。
ただ無批判に向こう側の言い分を紹介している訳ではなく、万人坑については「どういったものかよく納得できない」など、疑義も投げかけている。
この本でよく話題になるのは、南京大虐殺と百人斬りだが、本多氏としてはそれらを主題にするつもりは全く無かった。南京大虐殺に関しては、1章を割いているだけだし、百人斬りに至っては僅か20行程である。それらを広めたのは、本多氏でも中国政府でもなく、日本の右翼・右派言論人である。
彼らが本多氏の記事に様々な事実無根の言いがかりをつけ、それに対して本多氏の他、歴史家が調査した結果、両方とも歴史的事実である事が判明したのだ。右翼・右派言論人からすれば、ヤブヘビもいいところである。
本書は他にも、強制労働、731事件による人体実験、三光作戦を始めとする中国各地での虐殺・残虐事件について報じているのに、何故南京大虐殺や百人斬りがやたら注目を浴びたのか分からない。
日本が中国をかつて侵略し、1000万人以上とも言われる死者が出たのは事実だ。今日では誰もそれを否定する人間はいないだろう。その総数から見て、南京の死者が20万だろうと30万だろうと、誤差の範囲なのである。犠牲者総数から目を背けてはいけない。
本多氏が本書で報じた内容は、後の調査・取材によって、多少の細かい違いはあれど、事実として認められている。朝日新聞や本多氏が捏造をした、と良く言われるが、そういう人は自分で取材もしないだろうし、都合の良い情報だけを集めて満足しているに過ぎない。これを自虐史観ならぬ、自慰史観と呼ぶ。そういう人達には、以下の言葉を贈ろう。

過去に生じた「戦争の惨禍」は、それが人間の生命と心身とに 与えたものについては、永久に回復できず、その責任を、 加害者の処罰や加害国の物質的賠償によって償わせたとしても、 失われた生命や傷つけられた心身を元通りにすることの永久に 不可能な以上、もっとも有意味な償いは、将来における「惨禍」 の再現を阻止する責務を達成することにあると考えざるを得ない。 その目的を果たす努力こそが戦争責任を自覚するものにとって、 最高の償いとなるものと信ずる。(1985年 家永三郎

 

過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目になります。 非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またその危険に陥りやすいのです。(1985年 ワイツゼッカー西独大統領)

 

われわれは、自国の歴史を前にした責任、そして自国の歴史 に対する責任を担う。たとえ個人的な罪はなくとも、 過去を心に刻むものだけが、自分たちの歴史に責任感をもって たちむかうことができる。これこそ、われわれそしてわが国に とって良き未来をつくっていくうえでの前提である。 (2005年 シュレーダー独首相)

 

追記

本多氏が「中国側の言い分を代弁しただけ」との発言をもって、本多氏は信用ならないとか、南京大虐殺は当てにならないなどという主張を見かけるが、はっきり言って間違いである。万人坑に関する論争の中で、本多氏に反対する久野健太郎氏に対する返信の一節がそれである。それを、久野氏の仲間の田辺敏雄氏が自らの本で、本多氏の許可も得ずに一方的に公開してしまった。 「追伸。いま万人坑のところを読みましたところ、ほんの一ページ足らずをもって、あれを全面否定しておられます。しかしながら私はこれだけの内容をもって、 あれが全部うそだというにはとても説得力を感じないのであります。また私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか。 中国側との間で何らかの合意点が見つかったときには、それをまた本で採用したいと思っております」

「代弁しただけ」という言葉は飽くまでも万人坑に関してだけであり、南京や百人斬りは関係ない。 本多氏が捏造などしていない事がお分かりいただけよう。むしろ、右翼・右派言論人の方が捏造しているのである。そもそも、取材対象の言い分を代弁(この流れでは「紹介」の方が適切か)する事の何が悪いのだろうか。 全ての発言の裏を徹底的に取らねばならない、と言うのであれば、報道が成立しなくなってしまう。無責任・無根拠な発言ばかりしている人間が、文句を言える立場ではないだろう。

 

国の戦争責任

あるテレビ番組で知ったことからぼくの中だけの動揺にしばらく囚われている。戦争責任について、民間人の被害や犠牲と障害を負った軍人、軍属との補償の違いがある事実を知ったことだ。前者には補償がなく、後者には恩給などの手厚い補償がある。国が始めた戦争なのに、同じ国民に差をつける考え方に愕然としたのだった。同じ敗戦国のドイツとイタリアには軍人と民間人は区別なく補償されてきた。どうして日本では違うのか? ドイツやイタリアにできて日本にできないのは、国に対する考え方に根本的な違いがあって、日本には哲学がないように思えた。ドイツでは「住宅地や工場などへの空襲による被害」なども対象になっているし、イタリアも「国が当然持つべき感謝の念と、連帯の意を表すための補償」という理念を法律で掲げている、ということだった。

突き詰めれば国民自身が、国の戦争責任を問うことをして来なかったからだろう。GHQによって戦犯裁判をされて、その判決をサンフランシスコ条約で承認したことになっているらしい。本当は自分達で国が主導した戦争を検証すべきなのだ。・・・・・悶々としてネットを検索しているうちに読売新聞社のサイトに出会った。なんと渡辺恒雄自らが書いていた。

(参考にしたサイト)

君がいるから

また君のことが思い出された。君のささやかな望み、もちろん何でもないよ、そんなこと。どうしてもっと多くのことを望まないのだろう。欲張りじゃない、ほんの少しの前進で満足する君にぼくは涙ぐむ。どうしてだろう、いつもそうなのだ。あまりに可憐で純粋すぎで、君の思いがぼくの心を打つ。ぼくが君を忘れて大きなことばかり夢中になって時には躓いてうなだれる時、不思議な顔をする。これ以上望まない無欲ささえ気になっていないような当たり前の暮らし。それに歴史が積み重なっているのを想像することが君にできているのだろうか。野蛮と残酷から途方もない時間をかけて、改善が進む。今を生きていることに退屈ばかりのぼくを捨てないでほしい。

お盆は過ぎたが

94歳の母の一人暮らしが限界に近づいて来ているのかもしれない。今日風呂に入ろうとして一旦湯船に浸かっているうちにしんどくなって、何も洗わずに出てきてしまったらしい。私が実家に行った時にはちょうどバスタオルを巻いて出てきたところだった。下着のシャツも上手く着れないので手伝った。しかし、妻は今更同居は無理という。母も同居を望むとは言ったことはない。ただ頑なに拒むのは介護施設だ。自宅に死んでも居たいと言っている。私もできればそれを叶えたいとは思っている。今、早急にしなければならないのは、2階のベッドを1階に下ろすことだ。その為の部屋を準備している。そうすれは2階にある簡易トイレは1階に下ろして、オシッコの始末は幾分かは楽になる。当面そのことに意識を集中したいと思っている。

さて、例年今頃NHKで戦争記録物を特集して、今朝サイパン島の民間人の壮絶な最期を見ることになった。(NHKプラスで)今から80年前に実際にあったことだ。気分が沈む。我が日本軍は中国へ主力を傾注しているので、圧倒的なアメリカ軍に既に負けていた。当初アメリカ軍は軍隊と民間人は区別していた。しかし日本軍は民間人を盾にして無謀な攻撃を仕掛けるので、民間人を殺さなくてはならなくなる。民間人も陸軍の言葉を信じて投降はしなかった。やがてアメリカ兵も理性を失い、日本軍と民間人の区別をなくする。それが究極に進めば広島、長崎の民間人殺害の原爆投下につながると思った。

これまでに遭遇した課題の最大のもの

現在71歳で死ぬまでには多分20年近くある気がする。母親が94歳で健在なのでその年齢近くまでは生きられそうな気がしている。血圧が少し高いくらいで幸いにも健康を維持できている。地方都市で戸建ての自宅に住み、年金で生涯暮らせそうなので生活の心配も余りしていない。母親の介護が控えているから全く悠々自適でもないが、不自由に感じてはいない。ただ毎日は単調でほとんど同じ繰り返しを強いられてはいる。母は要介護1で、最近は毎日失禁するようになった。紙パンツをしていても尿漏れするので毎日洗濯している。この前は椅子に敷いてある座布団を洗った。それくらいは仕方がないと思っている。物忘れはひどくなっているが、徘徊はしないので助かっている。

さて、親の介護以外の時間は自由であり、基本的に本を読んで過ごしている。そして人生の意味という問題に毎日考えている。そう、自分は生まれてきて現在まで生きてきた意味についてだ。一体どういう自分にしか果たせない問題があるのか、このまま死にゆく自分に何が課せられているのか、それを知りたいと思う。

私の人生でこれまでに遭遇した課題の最大のものは、K党派の人たちとの接触から得た「革命」の問題だと思う。それを思わせたのは、今日読み終えた本だった。吉本隆明著「超資本主義」である。

 

⚫️これまでの人生の振り返りはここで書いています。