ブログという公開の日記でぼくには、内と外の境界を曖昧にしておきたいという自己表現上のこだわりがある。内に隠すことと外に出してしまいたいことがはっきり分かれない所に興味があるのかも知れない。いつも躊躇の状態のままダラダラと流れる意識に興味があって何なのだろうと書いてみる。でもどちらかというと、隠していたことを表に出してしまおうと思う時の方が書きたい気になっていると思う。表に出せない潜在している異常な心のこともある。誤解を生みそうで変人と思われて嫌われるのが面倒ということもある。日記はそもそもプライベートなものなのに、第三者に広く公開するところに何か矛盾があるような気がする。矛盾というよりは、何か変人じみた趣向のような気がしてくる。
こうやって書いてみると自分がどんな人間かが分かってくる。自分は現実にこの世界というか世間に生きているので、生身の自分に影響しない条件とか環境の中でいろいろなことを書きたいのだ。言わば安全圏を確保した上で身を晒したい止みがたい欲求を持つのが書くことを覚えた人間なのだろう。
ところが最近、安全圏と思っていたブログに書いたことが生身のぼくを知る人に検索されて読まれてしまったのだった。その人を仮にUさんとする。Uさんとは3週間ほど前に知り合った。といっても手紙と電話だけの交流しかない。ぼくとUさんはある公共的な団体に属していてぼくはその団体の名簿からUさんの住所、電話番号を知った。見ず知らずの人から突然携帯電話が入っても出られない可能性があるので、最初に手紙を出した。要件は至って事務的なもので、ぼくが属するグループとUさんが属するグループである交流イベントをしましょう、というものだった。手紙を読んですぐにぼくの携帯に電話が入って、その提案をグループメンバーで検討するという返事だった。
問題はその提案というのは、2グループが属する団体の会長から指示されたことでぼくはとにかくやってみようと返事をして連絡を取ったという経緯がある。しかし連絡を取った後詳しく交流の中身を具体的に考えてみると、難しい面が分かってきた。実はその後随分迷った挙句、むしろ交流に否定的になった。ぼく自身が納得できなければ会長からの指示であっても、動くことはできない。それは、ある意味ぼくの軽はずみな指示の受け方に問題があったと今では思える。
しかし、問題の核心はもちろんぼくの行為の形式的なことにあるのではない。核心を探ろうとすると本をどう自分の自己教育に役立てるか、という問題に突き当たってくる。Uさんのグループは子供に本を読み聞かせる活動をされている。ぼくのグループは大人が一冊の同じ本を読んで何を読み取ったかを話し合う活動をしている。子供は親の読み聞かせという教育を受ける立場だ。大人は自分で自分を教育する。読み聞かせを受けるのは多くの場合、まだ自我に目覚めていない時期で援助が必要という前提に立っている。読み聞かせを聞いている子供は自分は読んでいない。教育が身につくのは自分から読み始めてからなのではないか。自分から本を求めて読み始めて、それを面白いと感じることが本に触れたことになるのではないだろうか。言わば読み聞かせから卒業することが読み聞かせ活動のゴールなのではないか、と思われる。一緒に並列するのではなく、前後の関係だろう。だから2グループは一緒に交流は出来ない、とぼくは結論づけたのだった。